Beyond Description

コトバにできないことも、コトバに。

お寺で座禅をキメてきた

 

近所のお寺で座禅してきた。

連絡なしで地域の人が自由に参加できるタイプのやつ。

「そろそろ座っていきましょうか」

 みながイメージする本番、つまり、半目になって手を組んでじっとする時間までに、お坊さんの講話がある。なぜ座禅をやるのかや具体的な手法などを説明してくれる。

講話も終わりに近づき、もうすぐ本番が始まるんだなあと思っていた矢先、お坊さんが一言。

 

「そろそろ、座っていきましょうか」

 

何そのかっこいい「座禅」の言い方。「座る」でいいんだ。

歴の長い野球の実況者が大谷翔平の投球を見て「ええ球放りますねえ」の「放る」的な、歴の長い人限定の言い方(素人が手を出すと火傷するタイプの)でかっこよいと思った。

「打たれたい人は手を合わせてください」

 座禅と聞くと、お坊さんが座禅している人の周りをぐるぐる周って、居眠りをしている人を見つけると、木の棒で叩くというイメージがある。

あの木の棒は警策と言うらしい。

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引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E7%AD%96

思いの外本格的なので、警策で叩いてもらえるサービスもあった。実際に座禅者の間をお坊さんがぐるぐるまわって、必要なときに警策で叩く。

予想外だったのが、

「打たれたくなったときは、手のひらをあわせて拝む姿勢をとってください。見つけたら打ちに行きます」

警策、まさかの志願制。

座禅に集中できなくなった人が、志願して警策で叩いてもらうことで、気になるあれこれを心から追い出すことを主眼としているようだった。

実際に叩いてもらったところ、かなり座禅に集中できたのだけど、気になることを心から追い出せた、というよりも叩かれた肩甲骨付近の痛みしか、頭が考えられなかった、という感じだった。

(調べてみたら、こうした体験では「希望策」と言って、申告制の警策をやることが多いようだ)

自習の時間を思い出す

座禅の時間が始まるとお坊さんが部屋を退出する。

その間、もちろん真面目に座禅をやるのだけど、腰や足が痛くなってきて猫背になってきたり、眠くなってきて半眼(菩薩像のようにまぶたを半分落とす)なのか半眠(半分眠っている状態、自分が今つくった言葉)なのか、わからなくなったりする。

その折に、お坊さんが部屋に警策を携えてもどってくる。しかも、警策で素振りなどをしていて、めちゃ怖い。

お坊さんが戻ってきた瞬間に突如ベストの状態に復帰することは、今まで適当な状態になっていたことの証明だ。だから、一瞬で少しだけ姿勢をよくしたあと、徐々にベストに近づけて戻していく。対数関数のような感じだ。

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引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%95%B0

それからは、お坊さんがいつ戻ってくるかわからないから常にベストの状態をキープすることになった。

この、いつ戻ってくるかわからない偉い人を恐れてがんばる、懐かしい感じなんだろう、と思ったら中学校の頃の自習の時間だった。

教室を空けていた先生が戻ってきた際にさも「自分は真面目にやってますぜえ」という感を出すことに全力をかけていた自分と今の自分は、本質的には同じだなあと。

「なぜ今を生きられないのか」

真面目な話。

座禅において、やはり難しいのが、邪念を追い払うこと。

呼吸に合わせて数字を数えていくのだが、ふと気を抜くとやり残していることが、頭に浮かんできて思考を支配してしまう。

座禅が始まる前にお坊さんが言っていて、感銘を受けた言葉があった。

 

「なぜ『ただ座っている自分』をやれないのか」「なぜ今を生きられないのか」

 

 結局このお寺の畳の部屋で足を組んでいる自分は、何をどうあがいても「お寺の畳の部屋で足を組んでいる自分」を全力でやることしかできない。

でも、心はその自分をなおざりにして、どうあがいても解決も達成もできない事柄を思い浮かべてしまう。

そんな不安定な心を安定させていく訓練として、座禅は役立つみたい。

 

今後も折りを見て、家でやってみるかもしれない。