Beyond Description

コトバにできないことも、コトバに。

やっぱり書きたいのは、ブログではなくエッセイだと気づいてしまった話

文章を文章たらしめるものはなんだろう。

私が思うに「そのテキストだけを読んで自明であること」が一つの条件だ。
「なまたやささだままかさ」みたいな意味不明な文字列の羅列は当然文章とは言えないし、「た」を抜いたら意味のわかる「きょたうはあたつい」ような暗号もそのテキストだけを読んで自明ではないので文章とは認めがたい。

英語にSelf-explanatoryという形容詞がある。
日本語に訳すときは、「自明な」とすることが多い。無理やり日本語にするとしたら「自己説明的」とでもなるだろうか。

隣に説明してくれる人がいなくて、そのものだけがポンと置いてあったとしても、理解を進めたり愉悦を享受できたりする、ということ。

メディア間で比較してみると、週刊少年ジャンプに掲載されているようなマンガは極めてSelf explanatoryなメディアで、抽象画のような絵画はコンテクストの解説書や解説者がいないと理解の難しいnot self-explanatoryなメディアと言えるかもしれない。

一方、ブログというのは、とにかく分かりやすさが命だ。
検索から流入してきた一見さんが求める情報を瞬間的に提示する必要がある。
だから重要なところを太字にしたり、しっかり目次を整備したり、見出しを整えて情報の階層性が即座に伝わるようにしたりなど、さまざまな工夫がセオリーとされている。

この文章外での改善、つまり「どのような文字の連続を配置するか」以外の観点から記事を改善していく作業になんとなく抵抗ともやもやを抱えていた。
理由をずっと考えていたのだけど、はたと気づいた。
要は自分としてはズルだと感じていたのだ。


そうした工夫は、文章以外の要素をアジャストして文章の自明さを向上させる作業だといえる。
ブログを「文章」掲載の場だと捉えたとき、文章内ですべてを完結させるのではなく、それ以外の要素に力を入れる。美術館に飾られている絵画で喩えるなら、絵そのものの美を追求するのではなくその隣に飾られた解説パネルのテキスト執筆に力を入れるような、そんな的はずれな感覚があったのだ。

もちろんユーザー観点からブログを構成するさまざまな要素を調整することは重要なわけで、それは否定できるわけはない。
この理想と現実のギャップを見つめたとき、つまるところ、私が書きたいのはデザイン・SEO・セルフブランディング・ターゲティング・UX諸々の総合芸術としてユーザーに体験をもたらすためのブログではなくて、無人島から瓶に入れて海に流すのにふさわしいようなエッセイなのだと気づいた。

 

ちなみに私が理想とし憧れるブログもたくさんある。
ジコワットレポート:
https://www.jigowatt121.com/entry/2020/03/04/194702
kansou:
https://www.kansou-blog.jp/entry/2018/08/21/173700
余計な飾りはほとんどなく画面を埋めるのはシンプルな文字のみ。
文章の巧みさで多くの人を惹きつけ楽しませている。

 

このブログの一つ前の記事とこの記事でトライアルとして、あえて目次と見出しを設定せず、シンプルに文章のみで構成してみた。
SEO的には誤りであることも、ユーザー観点からも不親切なことを承知の上で、文章のみでどこまで自分の思考・感情を整理できるのか、確認してみたかったのだ。

やってみて得られたのは、自分の求めるものに近づいたなという感覚。

これからも文章だけで(も)自己完結し自明であるような発信をしていければと思った。

こんなことを書いておきながらブログとしての最適化をちゃっかり進めていくかもしれなかったりする。自分の性質を考えると、むしろその可能性が高いんだけども。